漢方について

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漢方の概要

症状を含めたその患者の状態を証(しょう)と呼び、証によって治療法を選択する。証を得るためには、四診を行うだけではなく、患者を医師の五感でよく観察することがまず必要である。 西洋医学では、患者の徴候から疾患を特定することを「診断」と呼び、これに基づいて疾患に応じた治療を行う。しかし漢方医学では、治療法を決定すること自体が最終的な証となる。例えば葛根湯が最適な症例は葛根湯証であるという。 証の分類と治療法の選択について、以下のようにさまざまな理論化がなされた。

漢方の歴史

中国大陸の歴史は「中医学」の歴史で漢方医学が日本に入ってくるまでの歴史である。

中国大陸

古代
などには「医」「薬」といった文字は見当たらず、まだ人々のあいだに医療という概念がなかったものと思われるが、やがて巫祝(ふしゅく)と呼ばれる、集落の神事とともに人々の病も癒すシャーマン的存在があらわれることになる。最初の医療は、今でいう「占い」「魔よけ」にあたるものが主流であったが、やがてそこへ生薬などの「薬物療法」や、鍼灸の原初的段階が組み入れられていく。それとともに巫祝も、巫を専門とする神官的な存在と、医を専門とする医師的な存在に別れていったと考えられている。 こうして秦以前にも扁鵲(へんじゃく)などの名医の存在が数々の記録に残っており、たとえば扁鵲は六不治の一つとして「巫を信じて医を信じざればすなわち不治」をかかげ、すでにこの時代に医者とシャーマン的な存在、すなわち医学と宗教ははっきり分離していたことをうかがわせる。

中古
前漢(紀元前202年?紀元8年)の時代には『黄帝内経』という現在知られている最古の医書が編纂されている。後漢(25年?220年)の時代に張仲景により『傷寒雑病論』が編纂される。ただ、この『傷寒雑病論』は、長い戦乱で散逸し、雑病の部分だけが見つからず、『傷寒論』だけが残り、孫思?の『千金要方』などに、引用文などが書かれてはいたものの、『雑病』にあたる部分は発見されずにいた。北宋時代に王洙が『金匱玉函要略方』を発見し、その後半部分が『雑病』の部分にあたるとして、林億らによって、『傷寒論』と重複する部分を分けられ、『金匱要略(正式名称は金匱要略方論)』として、世に出回ることになる。ちなみに、張仲景は、『傷寒雑病論』の序文において、『黄帝内経』を理解してから読まなければならないと書いており、『黄帝内経』も読まずに『傷寒論』『金匱要略』を軽々しく扱うことには疑問視する流派もある。『傷寒論』は現在医学でのインフルエンザと推測される急性熱性疾患をモデルに病勢の進行段階と治療法を論じたとする流派もあるが、『傷寒』とは狭義の意味は急性熱性疾患であるが、広義は熱性疾患のみに留まらぬ意味もあるため、これもまた意見の分かれるところでもある。伝統中国医学は張仲景によって初めて理論的に体系化されたともいわれる。

中世
金・元時代(960年?1367年)には金元四大家と呼ばれた劉完素、張子和、李東垣、朱丹渓らが現われる。『黄帝内経』の理論を元に六淫理論、四傷理論といった新しい理論が表された。一方南宋では「太平恵民局」という公立の薬局が設けられて医者や官民に良質な薬を提供するシステムが構築され、宋慈が『洗冤集録』という世界初の本格的な法医学書を著しており、こうした成果は南宋を滅ぼした元王朝にも継承された。 また、明の時代に医師の李時珍が『本草綱目』を著して薬学・本草学の分野でも大きな進歩があった。

日本

古代〜中世
を通じて、あるいは遣隋使・遣唐使によって中国から伝えられた。8世紀に日本に戒律を伝えた鑑真は医学にも精通したとされ、756年に崩御した聖武天皇の遺物を納めた東大寺正倉院には多くの薬品が納められている。982年には現存する日本最古の医書『医心方』が丹波康頼によって編纂された。13世紀頃には禅宗の僧が医学の担い手となった。14世紀を代表する医師として『頓医抄』の梶原性全や『福田方』の有隣が知られている。

中世後期
しかし、日本で現在の漢方医学といわれるものが発展するのは16世紀になってからである。明に留学した田代三喜は金元医学を学んだ。その弟子であり織田信長に重用された曲直瀬道三は金元医学を解説した『啓廸集』を著わし、また医学舎「啓廸院」を創り息子の曲直瀬玄朔をはじめとして多くの弟子を教えた。金元医学を元にした医学はのちに後世派(ごせいは)と呼ばれる。この時代に医学と宗教の分離が行われた。

近世
17世紀には名古屋玄医が『傷寒論』への回帰を訴えた。後藤艮山が玄医の考え方を発展させ、香川修庵、山脇東洋、吉益東洞らがこれに続いた。この流れは古方派(こほうは)と呼ばれる。後世派が陰陽理論や五行理論といった抽象的な理論に基づくのに対し、古方派は実証的に『傷寒論』を解釈することに務めた。これは杉田玄白ら蘭学医にも影響を与え、華岡青洲による世界最初の麻酔手術にもつながっていく。しかし古方派の実証主義が結果的には西洋医学流入に伴い漢方医学が衰退する一因となる。 後世派と古方派はしばしば対立したが、後世派の祖である曲直瀬道三も『傷寒論』を軽視していたわけではなく、反対に古方派でも後藤艮山は「一気留滞論」を唱え、香川修庵は医学における陰陽五行説を否定するなど、『傷寒論』などの古典を無批判に肯定していた訳ではない。

近代
明治政府の政策により1874年以降は西洋医学を学び医師免許を取得しなければ医師と名乗ることが出来なくなった。現在でもこの規程は有効であり、純粋の漢方医は日本には存在しない(なお、漢方医の運動により1895年に医師法改正案が出されたものの、わずか28票差で否決されている)。ここに至り遂に漢方は壊滅の危機に瀕したが、医師免許を取得した医師が漢方医学の研究・診療することまでは否認されていなかった。1910年に和田啓十郎が『医界之鉄椎』、その弟子の湯本求眞が『皇漢医学』(1928年)を著わし漢方医学の復権を訴え、西洋医学を学んだ医師が漢方も学び実践する形で生き長らえた。 また僧侶の森道伯が後世派の流れを汲む一貫堂医学を築き上げたが、森道伯自身は医師免許が無く、矢数格や矢数道明など多くの医師が弟子として一貫堂に入門してきたため、門人たちによって一つの流派を形成するにいたった。なお、矢数道明はのちに大塚敬節と出会い、日本漢方医学会を結成して、ともに昭和漢方復興の大きな牽引力を担うことになった。

現代
1950年には日本東洋医学学会が発足した。1976年には漢方方剤のエキス剤が健康保険適用になり、広く用いられるようになった。医学部で西洋医学を学んだ医師たちのあいだでも、かなりの人々が漢方医学に関心や理解を示すようになったが、陰陽五行説など確固たる漢方理論に基づいて漢方医学を理解している人々は、2009年現在、残念ながらまだ一握りと言わなくてはならない。



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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』